まげブロ

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Global Language という名の新しい壁

Global Language としての英語の在り方について書こうと思うんだけど、その前にまずはグローバル化について、言語という観点から触れてみる。

 

筆者(過去にカナダに1年間交換留学)がカナダという国で、その土地に住む人と、カナダの文化の中で、英語で話す時、カナダ語を話しているような気になる。1年住んで住み慣れている土地というのもあるし、単純に好きな国でもあるし、安らぎを覚える。アットホームというか、居心地がいいと言うか、第2の家というか、そんな気がする。僕は2度目にカナダに行った時、「戻ってきた」という表現を使った。

でも、ひとたびカナダから出て、アメリカ人、イギリス人、フランス人、中国人、いろんな人たちと英語で話してる時も、同じ感覚を覚えるというわけではない。自分の能力、スキルとしての英語を使っている気がするのだ。どこのの国にも文化にも根ざしていない、グローバルランゲージとしての、アイデンティティの無い英語を話しているような気分で居る。

 

 

昨今の一番強大なグローバルランゲージ=国際共通語、それは間違いなく、英語。

 

その要因となっているのが、アメリカ合衆国の経済的、文化的覇権。そんなアメリカ合衆国は、中世以降強大な力を持ち七つの海を制覇したイギリスの血を主に引いている。だから自然と歴史的にも、英語が国際共通語になっていった。

この歴史的事実に異議が唱えられるとすれば、それはまた別の場所で議論することとして、僕が今感じていること、考えたいことはここから。

 

 

昔昔、英語が共通語になる前の時代、ある特定の言語集団に属する人間が、ことなる言語集団に飛び込む時、その新しい言葉を学んで話す他なかった。

たとえば日本人の商人が貿易のために中国へ渡ったら、そこで中国語を学ぶか、もともと学んでいた中国語を使うかどちらかだろう。通訳が居たとしても、日本語と中国語の通訳だろう。

 

しかし今は時代が変わった。

ハローワンツースリーが通じる場所が、どんどん増えている。中国に行ってもタイに行っても、観光地なんかでは特に、ハローワンツースリー、そしてそれ以上の英語が通じる。

 

つまり、日本語と中国語、日本語とタイ語、そういう異なる言語集団同士の間に、「英語」という新しい便利な層を挟むことができるようになった。(もちろん挟まなくてもよい)

しかもそれは、どこかの国の英語ではなく、グローバルランゲージとしての英語。

 

その層が今世界中でどんどん広い地域に拡大して、網の目のように広がっている。(もちろん、地域によっては中国語やフランス語、アラビア語が共通語として機能している場所もあるけれど。)

 

そこで話されている英語という言語はとても便利で、その層が行き渡っている地域では便利にコミュニケーションがとれるし、その地域はどんどん広がっている。そういう意味で、英語は魔法の切符のようだなとも感じる。

 

そして、その層の中に自ら身を投じて、色んな国からその層に入ってきた人とともに闘っている(一緒に仕事をする)人、またその能力のある人が、グローバル人材と呼ばれる人たちであると思う。

 

ただ、例えばアメリカで、アメリカの文化を持つ人たちに囲まれて、アメリカの英語を使って闘える(働ける)人は、グローバル人材ではなく、正確にはアメリカで働ける人材である。(英語が使える、という点で、グローバル人材としての資質を同時に獲得している可能性は多いにあるが。)

 

グローバル人材と言うのは、自分たちのバックグラウンドや文化がある程度そのグローバルランゲージに染み出すものの、なるべく自分がもともと属している文化領域または言語集団から乖離して、同じようにしてグローバル化した世界(層)に浮き上がってきた人たちとともに闘うことのできる人たち、言わば空中戦を展開出来る人たちのことを指すと思う。

 

 

 

しかし僕がここ最近ずっと考えていること、それは、「必ずしもみんながグローバル人材を目指して、その層にいたがっている、とは限らない」ということ。

 

僕は言語と文化は密接に関連してると思うので、ある特定の文化集団に踏み込んで、その最深部にたどり着くためには、やっぱりその文化集団が母国語として使用している言語を話し、理解する必要があるとおもう。英語やその他の共通語でもある程度は理解が出来るし、仲良くなることはできる。それでも、例えば旅行をする人たちがよく「一言ふたことでもいいから、現地語を知っておいた方がいい」と言うのは、その第一歩であろう。

 

英語は便利だけど、その便利さを利用せず、現地語を学び、その文化の一部になろうとしている人たちに対して、グローバルランゲージとしての英語を押し付けることは、バリアを張ってるようなもので、「こっちの領域には入れてあげないよ」と言っているようなものだと思う。

 

ペルーで僕が経験した例が1つあります。

僕はスペイン語の持つ文化が好きで、スペイン語を勉強している。(正直一番好きな国はスペインだし、スペインのスペイン語とペルーのスペイン語はかなり違うけど、ペルーでは可能な限りペルーの方言を使い、スペインのスペイン語にしかない文法的概念は使わないようにしていた)

ペルーというの国の生活や文化に少しでも馴染みたい、知ってみたと思いながらクスコのとある小さなお店に入ったときのこと。僕はパンを手に取って「Quanto es?(これいくら?)」とスペイン語で聞いた。教科書スペイン語でも何でもなく、ペルーの人はだれもが当たり前に使う自然な表現。お店の女の人は乾いた声で「five」と返してきた。その時僕はいい知れない虚無感にかられた。

 

日本人としてのアイデンティティは保持しつつも、自国を離れ、順調に成長しているスペイン語を駆使してペルーという文化領域に首を突っ込んで、その文化を体験しようとしていた僕は、お店の女の人が「英語というグローバルランゲージによるコミュニケーション」を僕に押し付けてきたことによって、一瞬にしてアイデンティティの無いグローバル層に放り出されたような気がしたのである。

 

人はしばしば、自分のもといた場所を離れ、別の文化集団を旅行する。そして時として、想いがさらに強くなり、その地域に住み、その文化集団の一部になりたいと願うこともある。

その想いが強ければ強いほど、さきほどの例のように「グローバル層」に掘り出されたときの心のショックは、大きくなるのではと思う。

どこの文化、ごこの言語に置いても同じことが言えると思うけど、最近僕は日本国内でのことを懸念しているので、ここからは話の舞台を日本にしたいと思う。

「海外から日本に移住し、何年も住んで日本語もかなり話せるのに、未だに日本人として扱ってもらえない。未だに街を歩いていると英語で話しかけられる」という話を耳にしたことはないだろうか。

 

どうか外国語が話せるみなさん、英語が話せるからと言って、中国語が話せるからと言って、フランス語が、スペイン語が話せるからと言って、日本国内に居るにもかかわらず、見た目だけで人を判断して外国語を振りかざすのはやめていただきたい。

 

その最悪のケースが、生まれも育ちも人間性も生粋の日本人である人を、見た目がマイノリティであるというだけの理由で「グローバルランゲージというコミュニケーション」を押し付け、つまり英語で(ないし別の言語で)話しかけ、グローバル層に放り出してしまうことである。

 

僕はこれを、人種差別と呼んでいる。

 

 

 

 

昔は、自分の文化領域にとどまるか、相手のそれに踏み入るか、その2択しかなかったが、今はグローバル層の登場は、こちらに入ってこようと努めている人を簡単にその無機質な層に追い返してしまう危険性を孕んでいる。

 

英語学習が進むのはいいけれど、「街で外国人っぽいひとを見かけたら、英語で話してみよう」というようなまがい物のホスピタリティの普及を助長することだけは避けたい。

 

日頃から磨いている外国語を駆使するのは、まずは普段通りの言葉で話し、その人と自分の間に他の便利な言語が存在するとわかってからでも、遅くないのではないだろうか。